ないものねだりよりやめる力。
あの人のように背が高かったら。
あの人のようにスポーツができたら。
子供の頃、背が高い同級生や、スポーツができる子が羨ましたかった。
1ヶ月早く産まれた3月生まれ。背の順はいつも前の方だった。
足も遅く泳ぐのも不得意。
体育で行われるドッジボールは、当てられないようにひたすら逃げる。
バスケットボールの時には、ドリブルができず、パスされたボールを落とす。
けしてコートの真ん中には行けない。
小学生の時に感じた劣等感はなかなか拭えなかった。
中学3年生の春、身体検査で1年前と1ミリも身長が変わっていない事に絶望した。
154.6センチ。
155センチに到達できなかった悔しさから未だに、コンマをつけて自分の身長を覚えている。
せめて158センチあればワンピースが似合うようになるのに、とたった3.4ミリをひたすら欲しがっていた。
運動ができるようになりたい、そう思わなくなったのは、社会人になってから。
運動が日常じゃなくなれば、大した悩みじゃなかったと思えるようになった。
身長は小柄でもバランスが悪くない着方をしよう、と自分なりにコーディネートするようになって、着る服の種類が増えてから。
もしかしたら、185センチ弱のパートナーが私のその思いを埋めてくれたのかもしれない。
こうして2つの無いものねだりがなくなった時には、また別の無い物ねだりをしていた。
いつまでも、無い物ねだりは終わらない。
「もっと語学習得スキルがあったら」
「もっと器用だったら」
「もっと時間があったら」
「もっと資金があったら」
無い物ねだりは、しても仕方がないと諦めた時ではなくて、別の事で補えた時に無くなるように思う。
身長がなくても、洋服を楽しめると知った時のように。
語学スキルの代わりに私には、人の感情を表情や目線、声のトーンである程度捉えられることが分かった。
器用でなくても、ミシンとその周辺の道具を豊富に用意すれば、洋服を作れるようにもなった。
必要ない事を、やらないと決める潔さと、効率の良い時間を知る事で、24時間の使い方が上手くなった。
資金をかけさえすれば事業がうまくいく訳ではないと知った事で、工夫をすれば資金のない自分にもできると思えた。
すでに前述した通り、ないものは終わらない。
新型コロナウィルスの影響を受けている人を見て、もっと雇用できるだけの能力があったら、と真剣に思う。
無い物ねだりはどうしようもないものと、代替えの何かでどうになる2種類があると私は考えている。
例えば「お金持ちの家に生まれたかった」とか「天才に生まれたかった」と言うのは、今更どうしようもない。
いつまでも思い続けて、実は自分はお金持ちの家の子だった、とか漫画や小説の世界を待ち望んでもそんな確率はほぼない。それは早く諦めた方が良いように思う。
逆に、代替でどうにかなる事は、どんどん代替えでいけば良い。
外注ができるものは外注すれば良い。
別のやり方をして、希望している状況にならないかを考えてみる。
そうして自分の欲しかったスキルや状況を手に入れたら、きっとまた無い物ねだりは現れる。
それをまた、クリアしていけば良い。
人はこれを「向上心」と呼ぶのだろう。
代替えの方法は、「やめる力」と「言い換えの力」が必要だ。
これが「一歩進む力」なる。
4月からの
「毎年、手帳の後半は真っ白。
何かしたいと思いながら,言い訳してしまう人が,自分との約束が守れるようになる5ヶ月トレーニング」でしっかりと習得してもらうつもりだ。